昭和52年07月18日 朝の御理解
御理解 第25節
「信心は大きな信心が良い。迷い信心ではいかぬ。一心と定めい。」
今日はこの二十五節を頂くに当たって、神様にお願いさせて頂きましたら、石井喜代司と頂きました。石井喜代司さんの事ですね。それはどういう事かと私は思わせて頂たんですれども、石という事は心という事なんでしょう。井と言う事は限りなく水がたたえてある井戸の事だと思うです、喜代司と言う事は喜びの代、司ると書いてありますね、喜代司。それで私思わせて頂いたのですけど、確かにこの方の道は喜びで開けた道だから喜びでは苦労はさせんと仰せられる。
だからそのあれもおかげ、是もおかげと喜べれると言う事同時に何故喜ばねばならないかと言う事をここでは頂きますから、これ一切が神様の親心であり慈愛であると分かる時に矢張りその喜びの理念と言うのは、こう言う所から発する訳ですね。喜ばねばならない事に不平を言うたり〈 〉と言ってたりしておった人がそれこそ喜代司さんじゃないけれども〈 〉を言ってたら損すると言った様な所まで喜びで受けて行かれる。かもそれは限りがなくそれこそ井戸の水を汲み上げる様に頂けるもんだと。
だから私はそういう喜びという信心の喜びというものが只おかげに繋がっていくという、限りなく繋がって行くという事だけでは信心は小さいと思うんですね。私は昨日の壮年大会に竹内先生のお話しを頂きながら、ああ成る程あ々いう説き方をするなら合楽理念のどんなに分からない人でも分かるだろうと。例えば反発をしとる人でも、又は理屈ばかり言う、まあ言うなら教学的な所でもよいですね。
教学的な先生方でもああ言う説き方をすれば分かるだろうと思わして頂いて、成る程学問と言うのは有り難いもんだなとこう思わして貰います。前半にそれを説かれて、後半の所はもうそれこそ先生の目のこまい、言うならば水ももらさぬ様うな心の使い方、いわゆる心行の面を話されましたですね。とにかく合楽理念をマスタ一すると言うてもです、只難しいことが分かったと言うだけではならん。局親先生が金光大神に繋がってござる、金光大神は勿論天地金乃神と同根とまで言われるお方。
その金光大神と繋がっておられる証拠に、金光大神の言われる事を日々実証していっておられるのが親先生だと。だからその親先生に通う事なのだ。もう目が覚めてそして休ませて頂くまで、ああ今日は百点満点のごたった。今日は六十点程しかなかっただろうかと言う様に日々を反省しながら、それはどう言う事かと言うとお風呂に入らせて頂いたなら、湯桶半分とこう言うとられる。いわゆる私が実行しておる事をそのまま真似だけでもさせて頂こうと言うのです。
まあ私の日常茶飯事にしておるその在り方を、そのまま行じておられると言う事を一日のああ言う多忙な御用の中に頂き続けておられるという。果たして合楽教会でこれはお風呂に入る時に、湯桶半分と思うただけでも感動する。親先生がねとこう思うから。熊谷さんがこの心行が始まる時に心行とはこんなにみやすいもんだと、私がいつもお風呂場での私の心行を聞いて貰う。今まではタオルをただ一寸こうしただけだったけども、それを一寸手で引っ張るだけ。
乾いた時には糊をつけた様に板の様にこう綺麗にしておる。親先生はこうなさるから私もそうさせて貰うと、思っただけで感動が沸いて仕方がなかったと、熊谷さんは言っとられます。だからどんなに難しい事を言ってもね、親先生と通わなければと言う事をまあ強調しておられましたですね。だから本当に親先生が言われる様に見易いんだと、やろうと思えば誰でも出来るんだと。
私は昨日、合楽の信心が大きいなと思った事は終った後、私の話を聞いて下さる時に自分が話しておる事にフト気が付いた事なんですけれども、例えば何班の方だったでしょうか、どこかの教会の方ですけど、この頃【 】と参って見えるお爺さんがおられます、どこか大分の方です。その方が班別懇談の時に自分の息子が戦死されたか何かでしょう。だから合楽で言う一切を喜ばねばならんと言われるけど、果たして自分の子供が戦死した事を喜べるだろうかと言う質問をなさった様です。
それでまあ色々に説明をして、ならこれは私自身が辿って参りました事をよく説明すれば分かって頂く事だと思ふのですけれど、その事自体が悲しい事なんです矢張り。なら私の方でも弟の戦死の事を今でも思ったら悲しくなるのです。けれどもねそのあんたの戦死を境に私がこう変わってこうおかげを頂いていると言う事になって来た時に、悲しみが百ならば有り難いのは千も万もですから。その苦しかったことやら、悲しかった事に対して、お礼が言へれると言う様な事なら分かるだろう。
そこでなら最近合楽でわです、そう言うね、信心しておってどうして風が吹くだろうかと信心しよってどうして雨が降るだろうかとなんて言う様な小さい信心はね、ぬきにしてと言うそんな事を私話しながらね、ほうもう会楽で説いとる事は偉大な信心だと思うたです。皆さんそうでしょう、信心しておるから風が吹かん、信心しとるから雨が降らんと言う事はないですよ、それこそ信心しとってどうしてあんな事が起きるだろうかと言う様な事も起こってくるんだけど、そう言う事は実は小さい事だと言う事です。
昨日竹内先生が当時の椛目に二回目か三回目に参って見えた時もまた親先生が留守だった。丁度久保山先生が奉仕だった。内さん今日は朝の御理解にあなたの御理解が出ましたよと言ってその話された、それを全部書き写して帰られておった、その書き写しを昨日持って見えて、昨日それを読まれました。私が朝方お夢を頂いた。それで竹内先生とまだ会うたことのない竹内先生と一問一答をしておる事であった。
その中で先生が質問しとれるのに、初代の時にはあの様に御ひれいを頂いておかげを頂かれた教会で段々教会が錆びれて来るいや、教団全体が何とはなしに錆びれて来ておる。と言うのは どう言うようなことかと。これから自分が本当の信心を求めて、信心の稽古をさせて頂くのに、言うなら不毛の地に如何に種を播いても芽はできらんし、勿論花が咲くとか実るとか勿論できらない。
やっぱり不毛の地と言うのがある。その所にです最近では教会の中に不毛の地に近い教会が多くなったと、しかも初代の時にあれ程御ひれい頂かれたのに拘らず、二代三代になって参りますと錆びれて行くのはどう言う事でしょうかと質問したら、先生がそれはおかげを頂き過ぎて美田が湿田になっておるからだと、その夢の中で私が答えておるわけです。初代の時には見事な言うならば荒れ地あれ屋敷であったかも知れんけども、開墾して見事な美田になった。
それこそ沢山のおかげを頂いた。所がですお恵みが薄い、ここではお水の事をお恵みと言いますね、そのおかげが多過ぎて美田が湿田になった、言うならばここがそげんでしたよね。いわゆる深田です。ですからここは麦なんかとれません所でした。それがこんなに高く地上げした。そう言うのを湿田と言う、だから湿ゐきをせなければいけません。竹内さんこれからのあなたの御用はその湿ぬきの御用だと言う事を、そして改めて言うなら三十八年と言よんなさったですかね。
その頃にもう既に合楽理念が説いてあったと、言う事をこれは確かに立たしがここで三十年近く説いておるもの全てが合楽理念に繋がるものだと思います。だから湿ぬきをすればまた美田になる。なら先生湿ぬきとはどう言う事でしょうかと重ねてお尋ねしたら親先生が、湿ぬきと言うのは人間心から神心になる事ですよと。最近の信者信奉者言うなら教会でも、言うならもう人間心だけで教会を運営して行こうと言う、まあ経営上手と言えば経営上手でしょうけれども、それでは大したおかげは頂かれません。
湿ぬきと言う事は、言うなら自分の人間心をぬきにして、そして神心一本にし絞らなければいけない。最近教団で言われておる最近の教師は情念が足りない、自分の子供の病気の時には一晩中でも御祈念でもせにゃおられんだろう。信者の時には果たしてどうかと言う様な事が問題になる、だから私は成程情念が足りないと言う事は信者に対する情念ではなくて、神様へかける所の情念がお互い欠けておるのではないかと。
末永先生があちらに行って五、六日目ですか、サンパウロ教会の御大祭の斉主を頼まれて、あちらで活躍されてます。そして一日おいてあちらの弟さんの三十五年の式年の霊祭を奉仕しとります。その翌々日が新聞社回りがあっとります。ですから一日泊まっておればもうそれこそ八時間も片道かかる所ですから、一晩泊まって新聞社回りを世話して下さる方に連れのうて行く訳ですけども、どうも此処で一晩泊まる事が、ビリグイの神様が待ってござる感じがする。
だから先ず一先づ帰ろうと言って、やっぱりその夜行で帰って来とります、夜行のバスでそういうものがね、神様に対する自分が居らんと神様が淋しがんなさろうと言った様な情念が確かに欠けておる。それを神様と言わずに信者に対する情念と教団で言っておる。そう言う事が湿田になる元なんです。神様へ掛ける情念と言うものが確かに欠けておる。そこには或るブラジル人の方が参って来ておった、初めてのお参りであった。そして帰ると先生をつかまえて一番に発せられた事が先生あなたは私の悩みが分かりますかと言う質問であった。
とてもとても私が分かろう筈がないけれども神様にお願いしてみましょうと一心にお願いをした、この人はあんまり霊徳にふれてないのです、所が初めて御心眼に頂いたのがブドウが腐って落ちかかってる様な所であった。と言う事を通訳を通して伝えた所が、もうビックリされてもうその通りですと言って帰られた。その人が中学校の校長さんであった。もうその方がそれから次々と沢山な人を導いてとその方の事をそう言っています。本当にその時、一晩泊まっておったらどうだろう。
本当に神様のおかげを頂くと言う事はです、如何に小さい心を粗末にしてはならないかと言う事が解ります。私は或る時お夢の中に、懐中電気の部分か品が一つここに落ちとる、拾うたらまた落ちとる、だからズ一ッと拾うて行って最後にレンズが落ちとるからこうはめてプッと抑えたらパチッと光が一つ落ちる所を頂いた。どの一つを拾い損なっても光にはならんのです。だから信心とはそんなに目つまつたものじゃからそんなに難しいかと言うとさに非ずです。
お互い心行を心に掛けさせて頂いとけばです、それが出来るのです。然も楽しいのです。そして神様えの情念は愈々募って行くばかりです。ですから初代の時あんなに御ひれいがたっておった教会がいうなら頸骨化と言うかね、もう骸骨の様になってしまっている教会があると言う事ですね。ですからそれに言うなら、カンフル注射でもすると言う事はどう言う事かと言うと、人情を捨てて神情一筋になると言う事だと。
その人情を言うならその湿ゐき代わりにそこに納めて行くと言うか、いけて行かなければいけないと言う事。あの湿ゐきには何を使うかと言うと、あの山の羊歯が一番良いとされとるですね。もう羊歯ごろしですここら辺で言う。羊歯を沢山とって来といて田圃をこう掘り割りですかね、ずっと深く掘ってそしてその中に羊歯をずっといけて行くわけです。そすとその湿田でもまた美田に代って行くのです。
言うならばです、羊歯ごだの信心をです、私は振り捨ててそして本当の信心に神様に向う信心に、私は今日はその事をフと気付くかせて頂いた。お互いがね羊歯ごだの信心と言うものを湿ぬき代りに葬って行かねば駄目なんです。今日ここの修行しとります先生方また学院に勉強をしとる人達のことを一人一人の事を願うのですけど、願して頂いとりましたら、もう美事な熨斗袋に美事な水引きが掛かっているのです。それを一人一人こう重ねて行く所を頂いた。
所が勿論中にはまだ何にも入っていないと言う所でした。一心に全身全霊を神様に捧げているという人達です。だから美事に言うならば、水引きも出来た熨斗もつけた、立派な熨斗紙に包んで言うなら型だけは出来た。さあこれからこれに中身を入れなければ誰も受け取っちゃくれません。もしそのまま神様にお供えをするならかえって御無礼になるじゃありませんか。こりゃ神様だけじゃない人でもそうです。
そりゃ中は立派な熨斗袋ぢゃけんこりゃいくら入っとるちゃろうかと言って、開けてみたら中は空じゃったこげな失礼な事もないが、こんなおかしい事はないのです。だからならこれは此処で修行しとる先生方だけぢゃなくて、お互いがです合楽理念をマスタ一する事は言うなら立派な水引きの掛った熨斗袋を頂いた様なもんです。だからそれに中身をです、開けてみて相手がびっくりされる位な中身が入れられる所にこれからの合楽理念があるのです。
形の事は分かった、一通りマスタ一した、小さいいうならばパンフレットを読んだだけで合楽理念とははぁこう言うものかと分かる、そして成る程先生が言うごとこれがほんなこっじゃろうと言わば思う確信する。そんならほんなごと中身を愈々入れて行かねばならんと言う事。その中身がですそりや普通から言うたら小さい事ではないです。家の難儀です、自分の弟が戦死をした、けどそれに対してでも喜びが沸くと言う事は、自分達には分からん。そりや大変に悲しい事ですけどです。
それは信心は小さい信心だ。それをいわば乗り越えて行く所にですその悲しかった事苦しかった事に対してお礼が言え、その悲しかった苦しかった事によって力を得て行くと言う事なんです。そして言うならば確かに此方の信心は喜びで開けた道だから喜びでは苦労せんと。それこそ信心がなかったら一家中が泣きの涙と言った様な時であっても悲しいです、けれどもそれ以上のものを頂けたとして、お礼が言える時にです、成程喜びで開けた道と言うのはそう言う時でも喜べれる。
そう言う時でもお礼が言えるという信心なんです。だからそう言う信心は、石井喜代司で限りなくおかげを頂いて行きますけど、そう言う信心ががです、なら大きく育って行かなければならないと言う事、そうでなかったら大きくなれん。なら大きな信心とは大きな事を言っとる事だけでなくてです、天下国家の事を祈っとれば大きな信心と言う事でなくてです、その元をなすものは石井喜代司。
元をなすものは一切を喜びで受けて行く、言うならば信心しょってどうしてこんな事が起こったじゃろうか。あの人の家は信心しよんなさるけど、ああ言う難儀な事が続きよるとはどうしてですかと言う様な、そういう重箱のすみのせせる様な信心からです、それも神愛の中にあるんだと、ともう言えれる信心と同時にですその喜びが愈々育って行く大きくなって行くと言う事は放つからかしとったつちゃ育つちやせんです。その喜びが育って行く工夫なんです、ね。
昨日竹内先生がお話の中ばに十年祭を目指しての一つスロ一ガンとでも言うか、信心の目当てと言った様なものを皆さん親先生に頂こうじゃないですかと言う様に話しかけておられました。それで私はその事をすぐ、もし皆に聞かれたらどう答えるだろうかと思うて、神様に一日祈願をさして頂いたら、日の丸とてっもなく大きい日の丸のはたの周囲に八つ波が画いてあるその旗がです。
それこそ風にはためいている所を頂きました。所がその竿がいわば旗が大き過ぎて、その竿が小さくて弱いものですからべこべこしよる所を頂いた。ここにあるあぁ言う素晴らしい旗竿ならばどんな大きな旗を付けてもそれこそビクともしませんでしょう。結局芯が小さいと言う事なんです。これはなら私も含めてですならい合楽で、合楽理念をひっ提げて世界の各地にでも布教に出れば末永先生が頂いている様なおかげが、言葉が分からなくても異国の地であろうが、ああ言うおかげと此荷この力み返った所でです。
真が小さい心を愈々大きくして行かねばならない。また大きなおかげを頂き現して行かねばならない。成る程合楽の信者、信奉者の全部がです成程合楽の信者は、合楽理念を基にしての信心生活にはぁいう輝かしいおかげが頂かれるんだと言う、いわば実証をです、皆さんがして下さらなければならない。金光大神のお言葉を私が実証しておるとするなら、私のいっておる事を、皆さんが親先生のお話の中には嘘はない、本当だと言う事を実証して下さらなければならない。
それにはね私共が少し目が荒い事はないだろうか。如何に大きい言うて、もまず言うならば蟻の一穴からでも堤の堤防が切れると言われております。そこで合楽で言われる愈々心行言うならばです、竹内先生のお話を借りるならば、それこそ湯桶半分から心を遣わせて頂く稽古が要るのじゃないでしょうか、合楽の理念とはこんなに容易い心行とはこんなに容易い。それを実意丁寧神信心と言うのであり、なそうと思へば子供でもなせる様な事を疎かにしておって、大きな事ばかり願ったり。
大きなおかげだけを射止め様とした所でそれは始まらない話だ。私共の先ずは一つしだごだの信心をです、自分の田地の言うなら湿ぬき代りに使はして頂いて、まず心に美田を造っていかなければなりません。私は昨日改めてねもう合楽の場合はね、普通で言うなら大変な事なんだけれどもそんな事は小さい事だと言っておる私の実感をす、皆さんがそれを本当に家庭で起きる様々な問題で右様になった所から愈々大きな信心は育って行と思うのですよね。左心が動揺する様な事そげな信心は小さい信心だと皆さんが言われる。
どうぞ。